ヌータヤルヴィガラス村

ヌータヤルヴィガラス村

フィンランドで最も古いガラス村は静かで穏やかな場所にあります。
しかし、村の中は常に活気に満ちています。
この村のランドマークである1850年代の建築や、絵のように美しい木造建築は訪れる人を魅了しています。屋内ではガラス吹き職人や作家たちが新しい作品を生み出しており、いつも光眩しく、音が鳴り響いています。

村では、ガラス作家や職人だけでなく、金属工芸、絵画、テキスタイル、陶芸といった分野のプロの作家が活動しています。
作り方を自由に聞いたり、見たりしながら学ぶことができ、安全な場所であれば吹きガラスの工房にも自由に出入りすることができます。
シロップのように赤く光る高温のガラスが作品になっていく様子、鍛金職人の仕事場では実際に鉄を熱して叩いているところ、絵画作家のアトリエでは絵が完成していく様子も見学することができます。事前にご連絡いただければ、ガラスビーズ作りや吹きガラス、鍛金などを実際に体験することも可能です。
また村の中には吹きガラスの専門学校があります。学生たちの吹きガラス工房はいつでも見学でき、彼らが制作したガラス作品は工房のすぐ横にあるテーブルで常時展示販売されていますので、気軽にお買い求めいただけます。お皿、コップ、花瓶、鳥の置物、花など、さまざまな作品が人気を集めています。

ヌータヤルヴィの吹きガラスの歴史は1793年に始まりました。
ガラス村は著名な作家達によって、世界へ向けて走り出しました。例えば、オイヴァ・トイッカ(Oiva Toikka)の鳥のシリーズは、今やフィンランドのガラス作品に欠かせない存在です。また、カイ・フランク(Kaj Franck, 1911-1989)も10年間に渡ってヌータヤルヴィガラス工場のトップデザイナーとして在住し、この世を去った現在も後世にその名を残す有名なアーティストです。

現在のガラス村は、これまでの長い歴史の上に成り立っています。
現存する古い建物は、展示スペースやショップ、制作スタジオとして使用されています。村全体がフィンランドの有形文化財に指定されており、ガラス工場の職人たちが220年以上にわたって歩いてきた道を自由に散策できるほか、ガイドツアーも開催されています。


ヌータヤルヴィガラス博物館「プルカリ(Prykäri)」

ヌータヤルヴィガラス博物館「プルカリ(Prykäri)」は、カイ・フランクによって設計されました。カイ・フランクは博物館の内装、展示ケースの設計、展示品の選定を手がけました。プルカリは1977年から一般公開されており、現在はデザイン博物館の一部となっています。
ガラス博物館は、特に村に活気があった頃の詳しい様子や、村で制作されたガラス製品の歴史を公開しています。
ガイドツアーではガラス村で起きた様々な出来事を聞くことができ、とりわけ、カイ・フランク、サーラ・ホペア(Saara Hopea)、グンネル・ニューマン(Gunnel Nyman)といった著名人とヌータヤルヴィの関係について、またストックマンデパートがヌータヤルヴィと仕事をするようになった経緯などを詳しく聞くことができます。さらに、ガラス作品ができるまでを簡潔に学べるほか、ガイドツアーに参加するとさらに理解が深まります。

村のガイドツアーについての詳細は下記までお問い合わせください。
また、団体でガイドツアーを希望される場合は事前にご予約をお願いいたします。
Iittala Outlet Nuutajärvi
+358 20 439 3527

ショップ・工房

吹きガラス工房では自分で考えたデザインをもとに制作体験ができます。参加をご希望の場合は事前にご連絡をお願いいたします。
ガラス村のショップは通年で営業していますが、工房は個人による運営のため、それぞれ営業時間が異なります。事前のお問い合わせに応じて適宜オープンいたします。
村の中にはイッタラのアウトレットショップもあります。現行品はもちろん、B級品や在庫処分でお求めやすい価格の物も多数ありますので、ぜひ掘り出し物を探しにお越し下さい。
詳しくは下記までお問い合わせください。
+358 20 439 3527

ヌータヤルヴィガラス村の生い立ち
好奇心、飽くなき挑戦、広大な森


1793年、ガラス村はヌータヤルヴィ周辺に広がる広大な森林の恩恵によって生まれました。ガラスを溶かす窯には大量の薪が必要だったことから、十分な森林資源が確保できることが基本的な条件でした。18世紀当時、ガラス工場の設立は珍しいことではなく、むしろ流行でさえありました。しかし、当時設立されたガラス村で現在も吹きガラスが制作されているのは、稀なことだといえるでしょう。

フィンランドのガラス産業のはじまり
1681年、スウェーデン人のグスタフ・ヨハン・ユング(Gustav Johan Jung)が、フィンランドに初めてガラス工場を設立しました。ユングはストックホルムでガラス工場を所有していましたが、経営難のため、遠く離れたスウェーデン領フィンランドの臨海集落、ウーシカウプンキ(Uusikaupunki)に工場を移転させました。当時、フィンランドにはガラス職人がいなかったため、彼はストックホルムからベテランの職人達を連れてきました。ウーシカウプンキの工場では、瓶、クリスタル製品、窓ガラスの製造が開始されましたが、製品に十分な需要がなかったため、工場はわずか4年で閉鎖に追い込まれました。当時、窓ガラスは都市部でもまだ高級品だった上、経営者とガラス吹き職人たちとの間の争いが裁判にまで持ち込まれ、事業の継続が困難になりました。ついには1685年、ウーシカウプンキで発生した火事によって、町の大部分ともにユングの工場も焼失してしまうのです。
本国のニーズに応じたガラス工場
60年以上が経過し、ガラス産業がフィンランドで本格的に始まりました。生活水準や消費習慣が変化し、特に窓ガラスの需要が伸びました。スウェーデンの産業活動の監督当局は、森林資源の枯渇を恐れるあまり、スウェーデン本国にガラス工場の設立許可を出すことに積極的ではありませんでした。森林資源は製鉄産業に必要とされていましたが、ガラス産業でも大量の薪を必要としたため、当局はスウェーデン帝国のはずれにある、緑豊かなフィンランドに目を向けました。ストックホルム出身のヤコブ・レインホルド・デポング(Jakob Reinhold Depong)が、フィンランドでガラス工場を設立する計画に着手しました。スウェーデンはガラス産業を必要としていたため、あらゆる方法でデポングを支援しました。例えば、彼はソメロ(Somero)に計画した工場のために6か所の土地を得たことで、薪を確保することができました。1748年には、フィンランドで2つめのガラス工場、オーヴィク(Åvik)ガラス工場をソメロに建設する許可、すなわち特権を得ました。1747年の国会で窓ガラス不足に関する不満が多く寄せられていたことからもガラス製品の需要は見込まれており、オーヴィクの事業は順調に滑り出しました。
徐々に普及した窓ガラス

当時、窓ガラスは主にスウェーデンで必要とされていたため、製品のほとんどがスウェーデンに輸出されました。当初、フィンランドの田舎の建物にはなかなか窓ガラスが普及しませんでした。ガラス以外の材料は自然から得たり自分で加工できたのに対し、ガラスは唯一、金銭を払って買う必要のある建材だったためです。しかし、フィンランドでも次第にガラス窓が流行し始め、町の建物をお手本にしようとした農民が、壁板や赤色の塗装、煙突と同様にガラス窓を取り入れていきました。最初の窓は小さな格子でしたが、大きな窓を好むグスタフ様式の建築に影響を受けて、大きさは大きくなっていきました。北国の気候からは、すぐに実用的な新しいアイディアが生まれました。それは、室内の暖かい温度が保たれる構造の二重窓です。つまり、国会で窓ガラス不足が議論となったのも驚くべきことではなかったのです。オーヴィクガラス工場は、フィンランドに4つの新しい工場が設立されるまで、無競争で30年間操業することができました。この4つの工場は、1779年設立のシポー(Sipoo)のマリエダール(Mariedal)、1781年設立のウルヴィラ(Ulvila)のトゥオルスニエミ(Tuorsniemi)、1783年設立のオウル(Oulu)のニュービュー(Nyby)、そして1793年設立のウルヤラ(Urjala)のヌータヤルヴィ(Nuutajärvi)です。建設ブームと、それに伴う窓ガラスの需要のさらなる拡大により、ガラス工場が必要となったのです。また、家庭に蒸留酒を作る権利が与えられたことでガラス瓶の需要が拡大したり、園芸の普及によって保存瓶の販売が促進されたほか、牛乳の取扱いでは、ガラスが新しい衛生的な容器の素材となりました。ヌータヤルヴィ以降、フィンランドには多くのガラス工場が設立され、異なる期間操業していました。

ヌータヤルヴィガラス工場の歴史
ヌータヤルヴィガラス工場は、オーヴィクガラス工場設立者の息子、ヤコブ・ウィルヘルム・デポン(Jacob Wilhelm Depont)によって1793年に設立されました。ヌータヤルヴィ・マナーハウスを相続していたデポンは、実業家として父親の後を継ぐことに関心を寄せていました。ヌータヤルヴィ周辺の森林資源は工場設立に有利な条件でしたが、デポンはさらに森林が必要になることを想定し、ウルヤラにあるもう一つのマナーハウス、ホンコラ・マナーハウスを相続したヘラルド・フルヘルム(Harald Furuhjelm)をビジネスパートナーに招きました。彼は、森林資源の自給自足率を必要とされる水準にまで引き上げました。その一方、デポンのガラス工場への関心は急速に薄れ、日常業務をこなす熱意もありませんでした。デポンは工場とマナーハウスの両方をフルヘルムの弟、ヨハン・フルヘルムに売却しました。新オーナーはマナーハウスの維持に関心を持ち、1822年に現在のマナーハウスの本館を建てるなど多くの改修を行いましたが、ガラス工場に強い関心を持つことはありませんでした。
工場は、フルヘルム家時代の1843年まで、外部に貸し出されて操業しました。工場の事業は小規模に留まり、生産の大部分は窓ガラス、瓶、医療用ガラスで構成されていました。
1843年、フルヘルム家は、経済的理由からマナーハウスとガラス工場の両方を手放すことを余儀なくされました。

これを買い取ったのはラウッコ・マナーハウスの所有者、ヨハン・アガペトゥス・トルングレン(Johan Agapetus Törngren)でした。彼もガラス工場の経営者になるつもりはなく、3人のガラス吹き職人に区域を貸し出していました。
ガラス村を変えたアドルフ・トルングレン
1849年にアドルフ・トルングレン(Adolf Törngren)が父親から工場とマナーハウスを相続すると、ガラス村に変化が生まれました。アドルフ・トルングレンはガラス工場の事業の開発に非常に強い関心を持ち、フィンランドのガラス工場を外国の工場と同じように発展させることができると信じていました。1851年、彼は最新のガラス技術を習得するために中欧に研修旅行に出かけ、旅の途上で、ヌータヤルヴィのガラス生産水準を向上させるためにまとまった数のドイツ人のガラス吹き職人を雇用しました。これがきっかけとなり、フィンランドのガラス工場は国際的な品質要求を満たすガラス製造業者として発展し始めました。
アドルフ・トルングレンは、特に工場施設のあり方に注目していました。彼は最新の技術には時代に合った施設や設備が必要であることを理解していたのです。また、彼はドイツ人、フランス人、ベルギー人のガラス吹き職人たちに快適な環境を用意したいとも考えていました。中欧の人々には、簡素な生活に慣れ親しんだフィンランド人とは異なる習慣や要求があることを前提にする必要があったのです。トルングレンは、当時の最も高名な建築家で、トゥルクとポリの州建築家を務めていたG. T.シェーヴィッツ(G.T.von Chiewitz)のもとを訪ねました。選んだ建築家からも、トルングレンの改革への熱意がわかります。彼には、ヌータヤルヴィガラス工場を世界に名高い工場にするという確固とした意志がありました。腕のいい外国人のガラス吹き職人を雇ったのと同じように、シェーヴィッツを建築家に選ぶことで、彼はモダンで優れた製品に対する確信を早くから持っていたのではないでしょうか。トルングレンは、シェーヴィッツが1851年から製造施設、住居、学校、娯楽施設の設計を進めていた、近郊のフォルッサ(Forssa)産業共同体の建築群のことも知っていました。トルングレンは、後に1857年にタンペレにリネン工場(後のタンペッラ株式会社(Tampella Oy))を設立する際や、自分のヴィラを建てる際にも、建築家にシェーヴィッツを起用しています。

ヌータヤルヴィガラス工場の製品に需要が出始め、外国市場も開けてきました。第一次世界大戦期までは窓ガラスをロシアに、またガラス食器・装飾品、薬瓶やインク瓶を主にリガやタリンに輸出していました。アドルフ・トルグレンは目標を達成し、ヌータヤルヴィは1850年代の終わりにはフィンランド有数のガラス工場となっていました。トルングレンの事業熱はすぐに他の分野へと向かい、1859年にはガラス吹きの達人ヘイトマン(Heitman)、小売業者のヤンソン(Janson)に工場を貸し出しました。しかし、彼らが工場の事業を発展させるには経済的に限界がありました。1861年には吹きガラスの作業場が火事で破壊され、事業が停滞しました。1869年には、トルステン・コスティアンデル(Torsten Costiander)がマナーハウスとガラス工場の新しいオーナーとなりました。彼はマナーハウス区域の建物や農業の開発に強い関心を持っていたものの、ガラス工場の事業は彼にとって馴染みの薄いものでした。そのため、彼は以前工場を賃貸していたカール・ヘイトマンと共に有限会社を設立し、彼を工場の管理責任者にしました。こうして、雇用された責任者がガラス工場を管理する体制へと徐々に移行していきました。
1950年に発生したガラス工房の火災の後、マナーハウスの所有者によって設立された株式会社、ヌータヤルヴィガラス工場株式会社(Nuutajärven Lasitehdas Oy-Notsjö Glasbruk Ab)は、ガラス工場をヴァルツィラ・グループ株式会社(Wärtsilä-Yhtymä Oy)に売却しました。同時に、マナーハウスのガラス工場の時代は終わりを告げ、企業経営の時代となりました。ヌータヤルヴィガラス工場株式会社は工房に満額の保険をつけておらず、債務に陥った会社の支払能力は新しいガラス工房の建設には不十分だったため、工場の売却はやむ負えないものとなりました。ヴァルツィラの時代と1950年代には、フィンランドのガラス工芸が国際的に飛躍しました。ヌータヤルヴィガラス村で長年にわたってアート・ディレクターを務めたカイ・フランク(1911-1989)は、1950年から1976年までヌータヤルヴィで活動し、ヌータヤルヴィ、そしてフィンランドのガラス工芸全体に多大な影響を及ぼしました。